研究02|量子力学と論理空間
量子力学の観測問題を哲学的に考えると、最初にぶつかるのは「可能性は事実なのか」という問いです。
世界が成立した事実の総体であるなら、観測前に複数の結果を許す量子状態は、世界の中で何として存在するのでしょうか。
私は当初、量子を「観測者に対する主観的な可能性」と考えていました。可能性はまだ起きた事実ではなく、観測によって一つの結果が選ばれて初めて事実になる。ならば、量子は事実として存在しないのではないか――という考えです。
しかし、この論証には一つの混同がありました。
量子系、量子状態、可能性、観測結果、そして観測者の知識は、同じ種類のものではありません。
本稿では、この違いを「世界記述における異なる論理階層」として整理します。ここでいう階層とは、上下関係ではなく、異なる問いに答える記述を同一視しないための区分です。
この記事の結論
量子状態は「実際に起きた一つの事実」ではありません。量子状態と測定文脈は、どの観測事実がどの確率で成立しうるかを規定します。観測者が選ぶのは原則として測定の仕方であり、望む結果そのものではありません。
「量子は事実ではない」は半分正しい
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において、世界を「物の総体」ではなく、成立している事実の総体として捉えました。
ここで、電子そのものと、「電子が検出器Aで検出された」という命題を比べてみます。
- 電子――語られている対象
- 電子が検出器Aで検出された――対象について成立した事態
前者は対象であり、後者は事実です。したがって「電子は事実ではない」という文は正しくても、そこから「電子は存在しない」とは導けません。
量子についても同じです。
量子系そのものと、量子系について成立した事実は異なります。さらに、量子系を記述する量子状態も、観測によって得られた一つの結果とは異なります。
量子系 ≠ 量子状態 ≠ 可能な結果 ≠ 記録された事実
したがって、「量子は事実ではない」という命題だけでは、まだ何も否定できません。まず、何を量子と呼び、何を事実と呼んでいるのかを分解する必要があります。
世界記述を六つの論理階層に分ける
世界について語るとき、少なくとも次の六種類の問いを分けられます。
| 記述の種類 | 問い | 例 |
|---|---|---|
| 対象 | 何について語るのか | 電子、光子、測定装置 |
| 状態 | その系をどう記述するのか | 量子状態 ρ |
| 測定文脈 | 何を、どう測るのか | スピンのz方向測定 |
| 可能性 | どの結果がどの確率で起こりうるか | 上50%、下50% |
| 事実 | 実際に何が記録されたか | 上向きが記録された |
| 認識 | 主体は何を知っているか | 結果をまだ知らない |
これらは互いに関係しています。しかし、同一ではありません。
とくに重要なのは、次の三つです。
- 可能性――何が起こりうるか
- 事実――何が実際に起きたか
- 認識――主体が何を知っているか
元の論証では、「可能性である」ことから「主観である」ことへ進み、さらに「事実ではない」ことへ進んでいました。しかし、可能性と主観は同じではありません。主体が知らないことと、物理理論が複数の結果へ確率を割り当てることも同じではありません。
量子状態が記述するもの
量子力学では、系の状態を密度演算子 ρ で、測定を M で表すことができます。
測定結果 i が得られる確率は、一般化されたボルン則によって次のように表されます。
p(i | ρ, M) = Tr(ρEᵢ)
この式で重要なのは、確率が ρ だけではなく、量子状態と測定文脈の組み合わせに対して定義されることです。
つまり量子状態は、「すでに起きた一つの結果」ではありません。
量子状態とは、指定された測定に対して、どの結果がどの確率で生じうるかを計算するための構造である。
ここで、「構造」という言葉が重要です。量子状態は結果候補の一覧だけではなく、位相や干渉関係も含みます。そのため、古典的な「本当はどちらかに決まっているが、私たちが知らない」という無知とは、一般に同一ではありません。
観測者は現実を選ぶのか
「観測によって結果が決まる」という説明は、しばしば「人間の意識が現実を選択する」という主張へ飛躍します。
しかし、量子力学の標準的な数式から、その結論は出ません。
観測者が選択できるのは、通常、どの測定を実行するかという測定文脈です。観測者が、確率的に現れる個々の結果を自由に指定できるわけではありません。
観測者の選択 → 測定文脈
量子状態 + 測定文脈 → 結果の確率
測定相互作用 + 記録 → 観測事実
したがって、より正確な表現は次のようになります。
観測者は答えを選ぶのではなく、世界に対してどの問いを物理的に実装するかを選ぶ。
また、量子力学における「観測」は、人間が意識によって見ることだけを意味しません。系と装置の物理的相互作用、情報の増幅、そして結果として残る記録を含む概念です。
量子的可能性は主観なのか
観測前に結果が分からないなら、量子状態は観測者の無知を表しているだけではないか。
この考えを検討するため、次の二つを比べます。
- 量子的重ね合わせ:
|+⟩ = (|0⟩ + |1⟩) / √2 - 古典的混合:本当は0または1だが、どちらかを知らない状態
0と1を直接測るだけなら、どちらも50%ずつの結果を与えることがあります。しかし別の基底で測定すると、両者は異なる統計を示します。
違いを生み出すのは、量子的重ね合わせに含まれる位相関係と干渉です。
したがって、
量子的可能性 = 主体が答えを知らないこと
とは一般には言えません。
ただし、量子状態を世界そのものの実在と考えるのか、観測者の情報や信念の表現と考えるのかについては、複数の解釈があります。PBR定理などは、一定の仮定のもとで量子状態を単なる背後状態についての無知へ還元するモデルに強い制限を与えますが、量子状態の存在論を一つに確定するものではありません。
ここで慎重でなければならないのは、次の区別です。
- 量子状態の割り当てが主体の情報に依存すること
- 量子的な物理現象が主体の意識によって創造されること
前者から後者は導けません。
論理空間と量子状態空間は同じではない
『論理哲学論考』における論理空間と、量子力学で使われるヒルベルト空間や状態空間を、そのまま同一視することはできません。
大まかに分けるなら、論理空間は、
どのような事態が成立し、また成立しないことが論理的に可能か
を問題にします。
一方、量子状態空間は、
物理的に準備された系について、各測定結果へどのような確率を割り当てるか
を表す数学的構造です。
ウィトゲンシュタインの論理空間 ≠ 量子力学の状態空間
ただし、両者を区別したうえで接続することはできます。
論理空間が「何が事態として成立しうるか」を扱うなら、量子力学は「与えられた物理条件と測定文脈のもとで、どの観測事実がどの確率で成立しうるか」を記述します。
ここで量子力学が示しているのは、可能性が単なる空想ではなく、実験によって検証できる厳密な確率構造を持つということです。
さらにコッヘン=シュペッカー定理は、一定の条件、とくに3次元以上のヒルベルト空間において、すべての観測量に対して測定文脈と無関係な確定値を一括して割り当てる素朴なモデルが成り立たないことを示します。
これは「意識が現実を作る」という意味ではありません。
異なる測定文脈に属するすべての答えを、観測以前から確定した一枚の古典的な事実表として並べられないという、より限定された主張です。
論証を設計し直す
以上を踏まえると、最初の論拠は次のように修正できます。
修正前
- 量子は観測者に対する可能性である。
- 可能性は主観である。
- 選択によって可能性が事実になる。
- したがって、量子は事実として存在しない。
修正後
- 量子系は、量子状態によって記述される。
- 量子状態は、単一の観測結果としての事実ではない。
- 量子状態と測定文脈の組み合わせが、結果の確率分布を規定する。
- 観測者が選択するのは、原則として測定文脈であり、結果そのものではない。
- 測定結果が物理的記録として成立したとき、「その測定でその結果が得られた」という事実が成立する。
- 量子的可能性は、単なる主体の無知へ一般的に還元できない。
したがって、結論はこうなります。
再設計された中心命題
量子状態は事実の競合物ではない。量子状態とは、ある測定文脈において、どの観測事実がどの確率で成立しうるかを規定する構造である。
つまり、「量子は事実ではない」というより、より正確には、
量子状態と観測事実は、世界について異なる種類のことを記述している。
と言うべきです。
世界は事実だけで記述し尽くせるのか
ここで、最初の命題へ戻ります。
世界は事実の総体である。
この考えを量子力学がただちに否定するとは限りません。実際に成立した世界を構成するものを「事実」と呼ぶことはできます。
しかし、物理理論として世界を記述するためには、起きた事実を並べるだけでなく、
- どの事実が成立しうるか
- どの条件でそれが成立しうるか
- それぞれがどの確率を持つか
という構造も必要になります。
この意味で、
現実の世界は成立した事実から構成されるとしても、世界についての理論的記述は、事実の一覧だけでは完結しない。
と言えます。
量子力学は、事実とは別の世界を語っているのではありません。
どの事実が、どの問いに対して、どのように成立しうるのか。
その可能性の構造を記述しているのです。
よくある疑問
量子は観測されるまで存在しないのですか?
量子系が存在しないという結論は、標準的な量子力学の数式からは導けません。問題になるのは、観測前に特定の観測量が確定値を持つといえるか、量子状態を実在とみなすか、という解釈です。
人間の意識が観測結果を決めるのですか?
そのような結論は、標準的な量子力学の必要条件ではありません。観測は、通常、対象と測定装置の物理的相互作用および結果の記録として扱われます。
量子状態は完全に主観的なのですか?
解釈によって立場は異なります。主体の情報に依存する側面を強調する解釈もありますが、量子状態を単なる古典的無知と同一視することには理論的・実験的な制約があります。
「論理階層」とは上下関係ですか?
いいえ。本稿では、対象・可能性・事実・認識など、異なる種類の問いを混同しないための区分として使っています。量子力学の正式な専門用語ではありません。
次の研究へ
前回の記事「魔法は存在しない。しかし、魔法使いにはなれる。」では、物理的事実としての魔法と、論理空間における可能性、そして芸術による「示し」を区別しました。
今回、その前提となる「可能性」と「事実」を量子力学から分解しました。
すると、次の問いが残ります。
論理空間とは「可能な事実の空間」なのか。量子力学が記述する可能性は、その論理空間のどこに位置するのか。
この問いを、次の研究で考えます。
参考文献
- Ludwig Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus.
- Andrew M. Gleason, “Measures on the Closed Subspaces of a Hilbert Space,” 1957.
- Simon Kochen and Ernst P. Specker, “The Problem of Hidden Variables in Quantum Mechanics,” 1967.
- Garrett Birkhoff and John von Neumann, “The Logic of Quantum Mechanics,” 1936.
- Matthew F. Pusey, Jonathan Barrett and Terry Rudolph, “On the reality of the quantum state,” Nature Physics 8, 475–478, 2012.
※本稿でいう「世界記述における論理階層」は、量子力学の標準的な専門用語ではなく、存在・可能性・事実・認識を混同しないための分析上の区分です。